日本の習俗vol.10怨霊
< 怨霊信仰とは? >
怨念を抱いて死んだ者は怨霊となって祟るとされている。
怨霊をさけるために祈祷が行われ、それでも祟りが収まらない場合は
怨霊を祭り上げて守護霊へと転換する方法がとられた。
これを怨霊信仰という。格を上げて御霊信仰ともいう。
< その裏にあるものは? >
怨みを抱いて死んだ霊は、その子孫に祀られることがなけれは人々に
崇りをなすと信じられていた。
疫病や飢饉、その他の天災があるとその原因の多くはそれらの怨霊や、
祀られることのなかった死霊の崇りとされていた。
そういう風習を朝廷に生み出したのは民間信仰と陰陽師などの祈祷師であろう。
そして、そこに大陸の強い影響があったことは間違いない。
< 怨霊信仰の広まり >
文献の初出は『三代実録』863年5月20日の記事である
これは「御霊会」を朝廷が行なった記録であるので、
民衆の間ではそれ以前から行なわれていたと考えられる。
政治的対立者を怨霊として恐れたのはその政敵だった人たちであるが、
一般の御霊信仰は、むしろ一般 には実体のフワフワしたもの、
よくわからない怨霊に感じた畏怖をもとに成立したもので、
その具体的な霊格(祭神名)は多くは巫祝の託言や創唱によるものであった。
有名な紫野今宮以下多くの御霊会は単に御霊という以外に
何ら特定の祭神名を称することがなかった。
御霊信仰は外来の信仰としての陰陽道や仏教の影響もある。
仏教については亡霊追福を第一目的とする念仏信仰と御霊信仰とは
互いに相結びついて中世以降の庶民信仰を後押ししていく。
< 祇園祭 >
やはり、文章にして定義付けをダラダラ書かれるよりも
例を挙げたほうが、読みやすいし、面白いだろう、そこで
「 祇園祭(ぎおんまつり) 」 を取り上げよう。
古くは、祇園御霊会(ごりょうえ)と呼ばれ、869年に疫病が流行したとき、
祇園牛頭天王の祟りとして、平安京の広大な庭園であった神泉苑に、
当時の国の数-66ヶ国にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神を祭り、
さらに神輿をも送って、災厄除去を祈ったことにはじまる。
この祇園祭は、7月1日の「吉符入り」にはじまり、31日の境内摂社
「疫神社夏越祓」で幕を閉じるまで、
1ヶ月にわたって各種の神事・行事がくり広げられている。
< 祇園祭「疫神社夏越祓」 >
八坂神社御祭神、アマテラスの弟スサノヲノミコトが南海に旅をした時、
一宿の願いをしたスサノヲノミコトを、蘇民将来(そみんしょうらい)は粟で
作った食事でもてなした。
蘇民将来の真心に喜んだスサノヲは、疫病流行の際「蘇民将来之子孫也」と
記した護符を持つ者は、疫病より免れることができると語る。
その故事にちなみ、祇園祭では、「蘇民将来之子孫也」の護符を身につけて
祭りに奉仕するのだ。
また7月31日には、蘇民将来をお祀りする、八坂神社境内「疫神社」において
「夏越祓」が行われ、「茅之輪守」(「蘇民将来之子孫也」護符)と「粟餅」を
社前で授与、これをもって一ヶ月間の祇園祭は終幕する。
< 牛頭天王とは? >
牛頭天王(ごずてんのう)は、もともとはインドの祇園精舎の守護神といわれる。
「備後国風土記」には武答天皇の太子として登場、牛頭天皇と表記される。
牛頭天王は京都祇園の八坂神社の祭神で、疫病を防ぐ神であり、薬師如来を本地仏とし、
神道におけるスサノオ神と同体であるとされている。
それは上記に書いた蘇民将来の話の中で、私はスサノオだと云ったと記している。
その後、明治政府は神仏分離を政策としたため、牛頭天王を祭神としていた
神社は、すべてその祭神をスサノオ神に変えるか、もしくは、
祭神の中から牛頭天王を除外したのだ。
牛頭天王は疫病を撒き散らすと同時に親切に迎え入れた農民に対しては万病に効く
術を授けたとも言われている。
平安時代に都市部で信仰されるようになり、祇園祭において祀られるようになる。
八坂神社によれば、「天照大神の弟のスサノヲノミコト(素戔嗚尊)、その妻、
クシイナダヒメノミコト(櫛稲田姫命)が、一説に都に流行る疫病を静めようと
インドから牛頭天皇を呼び寄せ、66の鉾を神泉苑に送ったことに始まる」とある。
なんだって?! インドから呼び寄せた? なんてスケールがでかいんだ!
と言いつつ、今となっては、どうやって民間でこの牛頭天王が広まったのか
はっきりいって霧の中だ、歴史を掘り起こす事は出来ないと思われる。
今回は、民間に根付く怨霊信仰のひとつを取り上げました。
次回は、政治的対立に眠る怨霊信仰、まずは道真と早良親王を扱います。
< 794(泣くよ)怖くて桓武天皇 >
怨霊信仰のひとつめ、早良親王(祟導天皇)の祟りを恐れて平安京に
遷都したといわれるお話をば、一説披露させていただこう。
784年、桓武天皇は長岡京に遷都を計画、僧侶の政治介入に悩んでいた
桓武天皇は平城京から都を移し、新都は水上交通の便がよい桂川、宇治川、
木津川、淀川の交差点につくろうとしていた。
大きさは東西4.3キロ、南北5.2キロと巨大なものであった。
785年9月の夜、月光が消え(月食?)、不吉なことの前触れだと感じていた。
9月23日夜、長岡京嶋町で起きた、ある事件、
これこそが桓武天皇を一生悩ませる引き金となる・・・
長岡京留守司の藤原種継が長岡京造営工事をみているとき、種継が暗殺される。
種継暗殺首謀者として睨まれたのは、種継と対立していた桓武天皇の弟・早良親王。
桓武天皇は安殿親王を次の天皇にしたかった、大伴氏は早良親王を推していた
こういった政争に巻き込まれた早良親王、罪をかぶせるにはうってつけであった。
9月28日、親王は乙訓寺に幽閉され、無実を訴え断食をおこない、
船で淡路に移送中、高瀬橋のあたりで餓死してしまう。
このとき以来、長岡京には無実の罪で死んだ親王の怨霊が憑きまとう。
788 桓武天皇の妻・藤原旅子が30歳で死去。
789 桓武天皇の母・高野新笠が死去。
790 桓武天皇の妻・藤原乙牟漏が31歳で死去。 (若いね~)
また、この頃は旱魃により凶作はおこるは、790年、秋には都で疫病が
流行し、多くの人々が死亡、さらに安殿親王も病に倒れるのだ。
792年、桓武天皇は、陰陽師に安殿親王の病状をチャチャッ占わせたところ、
あの!あの!早良親王の祟りが原因だと判明する。
ビックリ仰天!早速、桓武天皇は早良新王が埋葬されている淡路島へ
使者を送り、親王の墓を整備させ、駄目押しに、僧に墓前で読経もさせたのだ。
し か し 、792年、夏~秋に大雨が続き、桂川が氾濫して
長岡京は多大なる損害被害を被った・・・。
これだけいろんな不吉な事が続くと誰だって怖いだろう。
桓武天皇は、長岡京を捨て、平安京をつくることを決断。
794年10月22日、平安京遷都。
桓武天皇は早良親王の怨霊を恐れ、陰陽道に基づき平安京を造営。
北に山(玄武)、東に川(青龍)、南に池(朱雀)、西に道(白虎)があるのが
最良の土地という考えを「四神相応」といい、京はこの考えに即して造営された。
北に山(玄武)は「船岡山」、東に川(青龍)は、「鴨川」
南に池(朱雀)は「巨椋池」、西に道(白虎)は、「山陰道」
また、鬼門の方角には「比叡山延暦寺」がどっかりと腰を下ろしている。
早良親王は800年7月、怨霊鎮魂をおこない、崇道天皇と追称された。
京都「上御霊神社」は早良親王の御霊神社として、今でも健在だ
ここには、のちに光仁天皇殺害の容疑で投獄された井上内親王、
謀反を企てた首謀者として捕らえられ伊豆に流された橘逸勢らいずれも無念の死を
遂げた8人を合祀し、祭神八所御霊とされた。
< 学会では? >
しかし、これは学会では認められていない、怨霊ではなく政治的意図と
捉えられているのだ、では、教科書などに載っている内容も書いておこう。
長岡京造営遷都に対し、朝廷には反対する勢力が存在した。
大伴氏や佐伯(さえき)氏である。
藤原種継暗殺事件、この事件は大伴一族の犯行であったとされている。
大伴一族は、東宮職を務めていた。
東宮とは皇太子のこと、東宮職とは、皇太子に仕えている役人となる。
この当時の皇太子が早良親王であり、遷都に反対の立場であった大伴氏は
桓武を廃して早良を次の天皇とすることを企図、事件を起こしたとされている。
早良親王が亡くなるのは同じだが、ではなぜ長岡京から平安京に遷都したのか?
1、新しくはじまった天智系王朝の力を示すため。(それまでは天武系)
2、平城京に勢力をもっていた古くからの豪族や寺院などから離れるため。
3、平城京と難波宮との複都制をやめて財政をひきしめるため。
平安京に、あの場所が選ばれた理由は??
1、交通の便が良い。
(淀川によって瀬戸内海と結ばれ、木津川によって大和地方とも結ばれている。)
2、京都は渡来人系の秦氏の根拠地であり、その協力を期待することができた。
(桓武天皇の母は渡来人系で、藤原種継の母も秦氏の出身であった。)
となっている、私見だが、怨霊信仰が遷都の決め手だと思うんだよなあ
この時期って、あとで取り上げるが「将門」「道真公」といろいろ出てくるし
陰陽道が盛んに朝廷に入り込んでいる頃、怨霊が正しいかどうかではなく
陰陽道というものが、政治に結びついていた時期だったと考えれば
そんなにオカルトな遷都理由でもないような気がする。
これだけいろんな不幸が重なって、横で「祟り祟り」と耳元で囁かれれば
信じるでしょ、桓武天皇が最後に早良親王を祟導天皇にまでするなんてねえ。
政治的意図にしては、ちょっと弱いと思う。
まだ、そこまで科学的に論理的に政治的にクールに動いていた
時代背景ではないと考えますな。
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今回は長いです、ここで一休み、クリックをしていただけると有難いです。
< 菅原道真公 最強の怨霊神 >
以前書いたように、平安前期は御霊会の盛んな時代だった、いずれは為政者側へ
取り込まれるのだが、やはり道真の神格化も庶民信仰からスタートする。
905年、道真の従者「味酒安行」が大宰府で祭ったのが最初と言われる。
道真が政争で敗れ、左遷され、悲しみの中、死んでいくことは
周知のこととして死後の話をここではご紹介しようと思う。
『扶桑略記』などを見ると、時平が死んだあたりから、日食・月食・彗星・落雷・
地震・旱魃・洪水・火事・伝染病の流行といった記事が毎年のように目立つ。
これらの怪奇現象が道真の祟りだと広まるのは、当然のこととも思える。
942年、多治比文子(たじひのあやこ)の夢枕に道真の霊が現れ、
北野の右近馬場の地にに祀るよう嘆願する。
北野はすでに雷さまが祀られていた地でもあったが、
彼女は身分の低さゆえ、自宅に祠を建てるにとどめた。
続いて946年、道真の霊が今度は近江比良宮の神官神良種(みわのよしたね)の
息子太郎丸の夢枕に現れ、再度右近馬場に祭るよう告げたので、
文子らと協力して右近馬場に祀った。
そして翌年、天然痘が猛威を振うなか、現在地に北野天満宮が創建され、
時の為政者である藤原師輔が社殿を増築し、摂関家の守護神としたのだ。
それから半世紀が経過した993年、道真は正一位左大臣を追贈されたが、
その背景には天然痘の流行があった。
しかも託宣により贈官を拒まれたので、朝廷は太政大臣を追贈までするのだった。
ここで道真公といえば雷、「落雷雷神」について書いておこう。
930年に宮廷の紫宸殿に落雷があり、死傷者が多数出たことであった。
これにより、道真の怨霊は雷神と結びつけられることになった。
もともと北野の地には、農作物に雨の恵みをもたらす火雷天神という地主神が
祀られていたことから、それが道真の怨霊と合体したものといわれる。
怨霊の怒りを鎮めるため、947年にこの地に北野天満宮が創祀。
その後、987年に勅祭が行われ、このときに正式に「北野天満宮大神」と
称号されるようになった。
同時に、雷神との結びつきという点では、雷=雨=農作物の成育という信仰から、
農耕神としての性格も強く持っているといえる。
日本の農耕信仰では、古くから北野の火雷天神のような天から降ってきた神を
祀る天神社(古くから農耕民族にみられた天神信仰)が各地にあった。
道真の御霊が火雷天神と合体したことによって、やがて各地の天神社の祭神も
道真=天神様とされるようになったのである。
現在は、時代と共に、道真公の悲劇の部分や、実はとっても学問成績優秀で
あったことがクローズアップされ、庶民の政争に対しての監視の
「こころ」も顕れているように思うのだ。
最強の怨霊神「菅原道真公」、これから受験合格のお祈りのピークを迎えるのでは?
< 将門の乱 簡略記 >
平将門は桓武天皇の子孫で、平氏の姓を授けられた、
高望王(たかもちおう)の孫であり鎮守府将軍平良将の子。
父の死後、一族と紛争が生じて,935年伯父国香を殺した。
国香の弟良兼・国香の子貞盛らは、一族の反逆者将門を討滅すべく数度合戦を
仕掛けたり朝廷に訴えたが、将門は恩赦もあって危機を乗り越え、
かえって坂東に武名を響かせることとなる。
威声の高まった将門は隣国武蔵国の国司と郡司の紛争の調停に乗り出したが失敗。
こののち、官物未納のために国司の追捕を受けた藤原玄明をかくまった結果、
ついに939年常陸国衙での合戦となった。
守の藤原維幾を捕えた将門は、意を決して下野・上野の国衙を襲撃、
上野国庁で新皇に即位した。
やがて本拠に帰った将門を、貞盛は藤原秀郷を誘い襲撃。
940年2月、攻撃を受けた将門は下総国猿島郡北山の合戦で敗死した。
別の見方としては、将門は堕落し荒廃する京都政権をしり目に、
東国の民及びその当時胎動しはじめた兵達に支えられて、
いわゆる独立戦争的な戦いを起こしたのだろう。
その当時すでに坂東平野は、水運の便も開け、生産力も大きく、
有数の馬の産地であり、その土地に合った独自の文化を持っていたのである。
こうした東国は、京都にとっては、ただ遠い国、『あずまえびす』の地であり、
植民地として蔑視し、搾取の対象としての地としか考えられていなかった。
京都で数年を過ごしたといわれる将門は、貴族達の何か欠落した生活、
又律令体制の裏面のいやな事を数多く見たにちがいない。
将門には我慢のならなかったことであろう。
< 将門の恐ろしさ >
将門のことを書いたものに「将門記」があるが、ここでは怨霊の強さを示す
「太平記」を紹介しよう。
「朱雀院承平五年に、将門と言う者東国に下って、相馬郡に都を建て百官を
召し使わせて、自ら平親王と名乗った。官軍はこぞって是を討うとしたが、
その身体は全て<鉄身>で出来ていると噂され、石や矢にも傷つかず剣戟
(剣を用いた戦いの事)にも痛みすら与えることはできなかった。
諸々の人々が議論しあった結果、鉄(くろがね)の四天を鋳造して、
比叡山に安置して、四天合法の法を行わせた。
それ故あってか白羽の矢が一筋 天より振り、将門の眉間に立った。
そして俵藤太秀郷に首を捕られることとなったのだ。
その首は獄門に懸けられ晒(さら)されたが、三月迄まで色はあせず、
眼も閉じる事はなく、常に牙を噛み閉めて、こういった。
「斬られし我五体何れの処にか有らん。此に来れ。
頭続(くびつい)で今一軍せん」
夜な夜な、こう叫び続けた。これを聞いた人々は恐れを無し言葉もなかった。
ある時道すがりの人がこれを聞くと
「将門は 米かみよりぞ斬られける 俵藤太の謀(はかりこと)にて」と詠んだ。
すると、この首 かんら!から!から!と笑い、眼はたちまちの内に塞がれ、
その屍は既に枯れていった」 by「太平記」
読んで分かるとおり「怖い・・・」、こんな怖い人はいない・・・。
唄好きな人なら、お分かりと思うが、米かみ(コメカミ)と俵はかかっている。
< 将門の首 >
首は、京都の東の市において晒されたが、何人かによって持ち去られ、
豊島群芝崎村・神田の社の境内に手厚く祀られて、慰霊されることになるのである。
これが、有名な『首塚(将門塚)』だ。
将門についての話は、これで終わりにならず、その死後、将門伝説として残っていく。
現在、将門ゆかりの場所は東京の都心部だけを取り上げても五ヶ所とは下らない。
まして将門の本拠地であった、常陸・下総はもちろん東国(関東一円)には、
そのゆかりの場所が、それこそ無数にある。
そればかりか日本全国二十三都道府県にもおよんでいるのである。
江戸・東京に伝わる伝説では、将門の首は京都で晒されるが、ある夜、
白く光を放って自ら、東の方に飛び去り、武蔵国豊島群芝崎村の地に落ちた。
その音は物凄く、東国一円に轟き渡り、大地は、三日三晩鳴動し続けた。
郷の人々は、恐れ慄き、近くの池で首を洗い、塚を築いて手厚く祀り、
供養したので、その祟りが鎮まったと言われている。
しかし、将門の首塚の恐ろしさは現代の方が知られている。
では、それを書き記しておこう。
1923年に関東大震災が起こり大蔵省庁舎全焼したが、将門塚を発掘調査の結果
盗掘され何もないため、塚を破壊し埋め立て仮庁舎とした。
1926年、大蔵大臣早速整爾が病にて死亡・・・怖い。
現職の矢橋官材局課長その他十数名死亡・・・怖すぎる。
政務次官武内作平ほか多数が仮庁舎で転倒して怪我続出・・・これは微妙に怖い。
将門塚破壊の祟りであるという噂が広まり1928年、仮庁舎を撤去し、
神田神社社司平田盛胤祭主の慰霊祭が行われ、大蔵大臣三士忠造以下
幹部関係者多数が拝礼。
1945年、日本敗戦、米軍が周囲を整地し、駐車場を作ろうとしたが、
工事用のブルドーザーを運転していた日本人が墓のようなものの前で
突然転落して死亡する事故が起き、塚だけは破壊を免れる・・・怖い。
このような背景もあり、「帝都物語」はヒットしたのだろう。
< 愛すべき将門 >
将門は朝敵だ、そのため、明治政府発足から敗戦時まで逆賊の汚名を受け
神田明神別殿に移されている、祭殿は大己貴命 (オオクニヌシ) と少彦名命となる。
いわゆる分祀ということだ。
こんな昔の乱を引きずり出し、分祀させる薩長の田舎侍は、やはり力が無かった。
そう天皇制の一本道にのみ民衆を囲える理屈が存在していたのだろう。
将門だって天皇家の血は引いていたのだが、儒教の色を濃く残すことに奔走した
明治政府は、新政府の正当性に躍起になったのかもしれない。
確かに反乱に許す理由はないかもしれないが、民衆はそんな政争を冷ややかに
見つめ、怨霊信仰により将門の素晴らしさを称えたのかもしれないな。
勝者だけではない、敗者にだって理由はある、そんな日本人の想いがかほっている。
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